Wednesday, November 30, 2005

バルザックの偉大さにしても、西欧のリアリズムにしても、バルザックが彼の時代のフランス・ブルジョア社会の限界・個性の限界としてその作品にくっきり映している歴史性は、公正な評価をもって見られるべきである。こんにちの歴史ではより明確にされている社会の認識に立って、バルザックがよまれ、西鶴時代の大阪商人の社会関係のもとに、西鶴がよまれなければならない。一人の読者とバルザック、西鶴をくらべれば、その文学上の能力、生活上の能力において、バルザックや西鶴とくらべものにならないかもしれない。けれども、現代の、つつましい人民の一人である読者がもっている実力は、バルザックと西鶴の個人的な天才がどうにもすることのできない歴史の実力である。バルザックと西鶴が、彼らの作品をのこして去ったのちの数百年の間に、おそろしいテンポと複雑さで、そのことごとくが人民の犠牲と献身の上に推進されて来た歴史が、きょうにもたらしている可能性である。この歴史の可能性こそ、明日の人民の能力に限りない期待を抱かせる。

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